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★「断捨離通信 4 」 だんしゃり Danshari   家の中でため息をついてませんか?            
断捨離1       断捨離2   断捨離3 

 『新・片づけ術 断捨離』                                                                                                          
「断捨離」(だんしゃり)とは、ヨガの行法哲学「断行・捨行・離行」をもとに生まれた言葉
断=入ってくる要らないモノを断つ
捨=家にはびこるガラクタを捨てる
離=モノへの執着から離れ、ゆとりある”自在”の空間にいる私
つまり、「家のガラクタを片づけることで、心のガラクタをも整理して、人生をご機嫌へと入れ替える方法」。「そうじ」をしたり、モノを捨てたりすると、なぜか心も軽くなる、というのは誰もが経験していること。 「断捨離」とは、皆が漠然としている「そうじ」や「片づけ」を再定義し、自分の「内在智」(心や体を快方向に導くセンサー)を磨くための行動へと落とし込んだメソッドです。 結果、自分の心をご機嫌に、ついでに運気も向上させてしまおうという方法論でもあります。 義務感を伴う「片づけ」から、自分の内在智や運気を磨く「断捨離」へ。  

『新・片づけ術 断捨離』  

                                       
                                                                        
「断捨離」(だんしゃり)
とは、ヨガの行法哲学「断行・捨行・離行」をもとに生まれた言葉。
断=入ってくる要らないモノを断つ
捨=家にはびこるガラクタを捨てる
離=モノへの執着から離れ、ゆとりある”自在”の空間にいる私

つまり、「家のガラクタを片づけることで、心のガラクタをも整理して、人生をご機嫌へと入れ替える方法」。
「そうじ」をしたり、モノを捨てたりすると、なぜか心も軽くなる、というのは誰もが経験していること。 
「断捨離」とは、皆が漠然としている「そうじ」や「片づけ」を再定義し、自分の「内在智」(心や体を快方向に導くセンサー)を磨くための行動へと落とし込んだメソッドです。 
結果、自分の心をご機嫌に、ついでに運気も向上させてしまおうという方法論でもあります。 義務感を伴う「片づけ」から、自分の内在智や運気を磨く「断捨離」へ。

「断の章」   

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        「同じように、モノがあるのだけれど・・・沈滞と停滞、雑然に騒然」

 同じように、モノが沢山あるのだけれど、ずいんぶんと印象が違う場合がありますね。

沈滞と停滞、そして雑然に整然


前々回の婦人のお宅、なんだか澱んで動きがまったくないような・・・

最近、うかがったあるお宅、、、
モノは、沢山あり、散らかってはいるのだけれど、なんか活動的で。
いやな感じがない。

確かに、動きづらい、使いづらい台所ではあるのだけれど、
ここの主婦さん、モノを取り出すのにアクション・カウントがどんなに多かろうと、
いそいそと料理を楽しんでいる。

なにが違うのだろう・・・

前者のお宅は、視界の中にはあるのだけれど、認知されていないモノばかり。
そう、目の前にあるのだけど、見えていない、そんな感じ。

いったい、いつから掲げられているのだろう・・・その変色したカレンダーにポスター。
真夏なのに、クリスマスのタペストリーがそのままだったり、
とっくの昔に改正されて役に立たない時刻表が張ってある。
期限切れのカタログ雑誌が、山と積まれ。

そして、面白いことに、こういう住まいの住人にかぎって、
今まで、まったくかえりみもしなかったモノでも、
自分以外の人間が片づけ、処分をしようとすると、
激しく抵抗したりして。

後者は、所狭しとモノがいっぱい飾られて、雑然としているとはいえ、
生きている感じ、ひとつひとつに思いが込められて。
非効率ではあるのだけど、暖かさがある。
たしかにモノが多すぎて、手入れを充分にするのは、タイヘンだけど。

同じように、整然としているのだけど、どこか冷たい・・・清々しいというよりは、殺風景。
そんな住まいもありますね、ただし、ごく少数派ですけれど。

住まいの主たる人と、そこにあるモノとの関係が、生きたものなのか、死んだ関係なのか。
つまりは、ヒトとモノとの、交流があるのか、無いのかで、
その家の雰囲気は、随分と違ってくるのだと。

気場の違い・・・

澱んだ沈滞した気場なのか、動きのある気場なのか、
どっちの気場を、身近な環境として選択するかは、自分次第。
そして、その選択が、暮らし・人生に、違った結果を呼ぶのでしょうね、間違いなく。

Picture
台所は、沢山の道具で溢れているのだけど、全部、生きている印象。
モノは多いけれど、どれも光っているように見えませんか?
少し取捨選択の基準レベルを上げて、モノを絞り込めば、
ずっと使いやすく動きやすくなりますね~(^^♪

出されたお料理は?もちろん、心がこもって、とびっきりの美味しさ!
ご馳走さまでした。

タンスの上、天井まで積まれた荷物。
こういう状況は、多くのお宅で、見受けられますよね。

モノの保存より、安全と健康の確保を優先して下さいね。
小さな震度の地震でも、落下の危険がありますから・・・   
                                                                                                                            8-20-10


             「24時間営業・・・あると便利なものは」

あると便利なものは、実は、なくても困らない・・・・

痛ましい事件がおきて、非正社員、派遣労働者といった非正規雇用の問題が
とりざたされてますね。

こんな記事を、新聞で読んだ。

ある24時間営業の飲食チェーンに勤務するアルバイト店長さん。
そこは今、全国のチェーン店舗で、24時間営業を推し進めているのだとか。
接客しながら清掃もこなす日々。衛生面も手薄となり、深夜の酔っ払いの対応もある。
だが、店の正社員数は変わらず、深夜担当のほとんどが非正規雇用の自分たち。
・・・夜勤を終えてのつぶやき。

「開いていたら便利だけれど、閉まっていても困らないと思う。
消費者のニーズに応じるという理由で、みんなが24時間営業する必要があるのだろうか」


消費者ニーズ・・・この言葉、クセモノかな。

必要と便利が、ないまぜになって、いえ、気がつかないうちに混同させられているような。
消費者サイドのニーズではなくて、つくられたニーズのような。

家の中に溢れるモノもそう。
あると便利かな、、、と思って、思い込んで、購入したモノがほとんど。
が、取り入れた時は、「コレは必要だなんだ」と、無意識のうちに自分にいい聞かせて、
買っていたような気がする^^;

生活の必需品といえるモノは、どこの家でも、ほとんど揃っている訳だから、
後は、生産者側は、便利グッズの類を売るしかないのかもしれないし、
消費者側は、それを買うしかないのかもしれない。

なにせ、買い物は、愉しいし、魅力的ですものね(^^ゞ

ところが、
「あると便利なモノ」=「なくても困らないモノ」という図式に、気がついた時、
あらためて、その図式で、モノとの関係を問い直した時、
家の中のモノが、一気にガラクタと化す。

なんで、こんな「しょうもないモノ」を買ったのかしらと。

先日、セミナーにご参加くださった受講生さん。
家族全員が肥満気味で、メタボリック対策のため健康マシーンの購入を計画中。
話を伺っていると、たしかに効果的で魅力的な画期的なマシーン。
あのナサで宇宙飛行士も使用しているとか、いないとか。

私とて、欲しくなる・・・
が、その大きさ、その重さ、その高価な値段 ・・・もっともっと、検討する必要がありそう。
一度、家に入り込んだら、出て行かすのは至難の業、物理的にも心理的にも。

この受講生さんも、いみじくも言った。
「なんで、今日、このセミナーにつられるようにして来たのかが、わかりました!」

いえいえ、購入してもかまわないのですよ、本当に欲しいのならば。

でもね、その前に、押入れや納戸・モノ置に眠っている健康器具たち、
ぶら下がり器具、ウエスト振動ベルト、ランニング・マシーン 、マッサージ・チェアetc etc。

それらを、なんらかのかたちで、きちんと処分してからでも遅くはない・・・と

・・・と、かつての経験者は、かく語りき(^^ゞ&(..)            
                                                                                                                             8-13-10 

         「モノがたまる生活、モノをためこむ暮らし・・・新陳代謝」 

すべてが、そのまんまの家
新陳代謝のない家
呼吸をしていない家

独り暮らしの婦人、夥しい量のモノを残して、逝った。

数百鉢以上の山野草、半分は枯れた状態で。
何年も前に漬けたであろう山菜の樽が、幾つも幾つも。
買い換えた洗濯機、が、以前の壊れたそれが残っている。
冷蔵庫も同様、三台ある。
若い頃からの大量の服、そのまま着られることなく吊り下げられて。

何もかもが埃にまみれ、押入れ、タンス、収納からはみ出し、部屋に溢れ。

上流と下流
上水道と下水道
取水口と吐水口
吸う息と吐く息
乗車口と降車口

入口があって、出口があるように、
いえ、出口があってこそ、入り口が機能するはずなのに・・・

ひとつとして出て行くことのない状況で、たたただモノを取り込む生活。
入り口しかない家で、ひたすらモノが溜まる、モノを溜め込む暮らし。

結果、無残な有様の住まい。
大量に溜まったモノとともに、埃とカビとダニまで溜まる(..)

そんな不健康な住環境で、自らの健康をもそこなうなんて、こんな損なことはないだろうに。

さてさて、このご婦人の例、ほんの一握りの話なのでしょうか?
程度の差こそあれ、けっこう思い当たることはありませんか?

人も家も、ちゃんとちゃんと呼吸ができてこそ、
モノも、ちゃんとちゃんと新陳代謝をさせてこそ、ですよね(^^♪
                                                                                                                           8-4-10

                       「人それぞれ・・・使用と所有と蒐集と 」  

断捨離は、ひたすら、自分とモノとの関係を問いながら、
住まいを整え、自身を調えていくプロセス。

モノとの関係の基本は、モノは使ってこそ。

母に、これは要るの?それは使っているの?と
どんなモノを指差して質問してみても、彼女の答えは、ひとつ。

要りますか?・・・いる!
使いますか?・・・使う!

たとえそれが、10年、20年と押入れの奥に眠っていたモノであっても、
答えは、使っているから要る・・・と現在進行形で返ってくる。

訝る私、解せない私・・・
でも、最近、漸くにして、わかった。

母にとっては、モノとは、所有するもの。
今、使っていなくても、今、所有しているという関係が成立している。
なるほど、「所有という使い方」をしているのだ。
だから、答えはいつも現在進行形・・・間違いないは確かに。

が、究極、家屋敷・土地さえも「地球からのレンタル品」と考えている、その娘とは、
折り合うのは、無理な話^^;

家・土地を登記して法的に所有権を獲得したとしても、
それはとりもなおさず、維持管理の手間の義務・権利を購入しただけのこと。
どんなモノも「お手入れ」してこそ、より良い関係が築ける。

やはり、モノは使ってこそ。

まったく笑い話みたいな正反対な母娘。
でも、けっこう多くの受講生さんがこんなお悩みを抱えている。

舅姑が、夫が、絶対にモノを手放さない、とっておきたがる。
いくら自分が片づけたくても、そして片づけても、ゴミ袋までチェックされて、
なんやかやと小言が返ってくると。

モノとの関係・・・所有タイプか、使用タイプか。
家族の中に、根深い対立が生まれる可能性が潜む。

そうだ、もうひとつのタイプも!

モノとは集めるもの・・・ひたすらモノを集めるタイプが。
集めることに価値を見出しているコレクター族が。

使用に、所有に、蒐集にと、
何に価値をおくかは、おいているかは、人それぞれ。

願わくば、その価値観が、自分の住環境を快適なものとしていますように・・・
                                                                                                                               7-28-10

             「持たない日々、気持ちイイ」~落合恵子 

突然、母が、折り畳みの簡易ベットを買うと言い出した。
えっ、何のために?
母いわく、今度泊まりに来るお客さまのために、購入したいのだとか。

わずか3泊するだけの、遠路よりの友人。
1年365日のうちのたったの3日。
残り362日、そのベットは、どんな扱いを受けるのだろう、母に。

部屋の隅に、立てかけられたまま埃をかぶり、
目の前にありながら、有ることさえ忘れられ、
ドアの開閉に支障をきたしながらも、
今後、何年にもわたり放置されることになる。
泊まっていくお客の来訪など、それこそ数年に1度あったか、なかったか。
母の年齢を考えても、今後、そのような機会があるのか、ないのか・・・

それでも、買うと主張する母。

モノを取り込むということは、その維持管理までも、取り込むということ。
そんな覚悟なくして、簡単にモノをに招きいれたら、住まいはたちまち物置場に。
なにせ、いったん家にはいったらモノは、取り除くのは、難儀。
それが、大きければ大きいほど、もったいなさがついてまわるのだから。

それでも、なぜ、母は買おうとするのだろう。

それは、無いと不安だから。
そして、モノの所有が、彼女の価値観の象徴だから。

客用ベットがなくて、不都合なのは3日。
残り362日は、無くてもなんらさしさわりがない。

「3日間の困った」=「不安」に、焦点を合わせるか、
「362日間の大丈夫」=「安心」に、焦点をあわせるか、
不安と安心、どちらにフォーカスするかは、まったく自由ではあるけれど、
もしそれが、無自覚な自分のパターンであるならば、
その小さな選択の連続が、人生を決定していくとは思いませんか。

作家の落合恵子さんが、「持たない日々、気持ちイイ」と、エッセイに書いていた。

・・・モノはできるだけ少ないほうがいい。
持ってしまうと、それを維持するために余計なエネルギーを使わなくてはいけない。
必要な時に必要なエネルギーを使うことは惜しみはしないが、
モノをキープするためのエネルギーは、ね!といった案配で、
気持ちよく、「持たない日々」を楽しんでいる。・・・2008/5/10付・朝日新聞

持たない日々を楽しめるのは、
「無くても大丈夫」に焦点をあわせ、
「見栄や虚栄からくる所有」を、断捨離しているからこそですね(^^♪                      
                                                                                                                    7-22-10

               「備蓄か、滞留か、堆積か・・・」

 前回のつづきです(^^ゞ

お姑さんと母、もちろん、このふたりにかぎったことではないのだけれど、
ひたすら、モノをとっておくことだけに、費やされるエネルギーの源は、
いったい、なんなんだろう・・・

答えは、本能、まさに本能、生存のための本能。

サバイバルのためには、備蓄が必要ですものね。
動物として、生き抜いていくためには、もろもろの危機に備えておかないと。

そう、危機管理なんです。

ところが、神様さえも想定しなかったような、夥しいモノあまりの現代社会・・・
正確には、激しいモノの偏在、有るところには溢れかえり、
無いところには、なんにもない、格差が現実の世界。

モノの量の危機管理なんて、まったく必要のない日本の社会で暮らしながら、
保存本能を、無意識・無自覚に日常的に発揮していたら、
住まいは、たちまちにして倉庫と化す。
しかも、きちんと管理されていない倉庫、つまりは、ゴミ置場。

捨てない、手放さない、溜めておく、とっておく・・・
捨てられない、手放せない、溜まる、とってある・・・
捨てたくない、手放したくない、溜めたい、とっておきたい・・・

意思なのか、無自覚の本能なのか、願望なのか。

モノとの関係を意識して、自分を見極めないと、
たちまち制御不能なモノたちに囲まれた、
機能不全の住まいに、暮らすはめになる。

そして、片づけても、片づけても、片づかない・・・と、
片づけのむなしさに、ため息をつく日々をおくるはめになる。

備蓄か、滞留か、堆積か。

意識した備蓄なのか、無自覚ゆえの滞留なのか、無感覚の結果の堆積なのか・・・

モノの有り様は、さまざまなんですね。
                                                                                                                          7-15-10

        「ひたすら、とっておくことに費やされるエネルギー・・・」 

・ヨガ修道場

・狭い、狭いが口癖のお姑さん

・モノを始末しない母


いつも、受講生さんのことを書かせてもらっているから、
たまには、自分のことも書いてみようかと・・・

と言う訳で、恥ずかしながら、我が断捨離について(^^ゞ

断捨離=断行・捨行・離行と出合ったのは、ヨガの修道場で。
うん十年も前の、学生だった頃。

とはいえ、頭で理解しただけの行法哲学。

行法哲学だから、実践しないと、意味はなさないのよねぇ・・・
もともと執着だらけのわが身。
断つことも、捨てることも、離れることも、無理だった若かりし頃のことが、
思い浮かんでくる・・・(..)

ヨガ修道場での、様々な体験はさておき、
断捨離を、生活の中の日常の道具、つまり、片付けの方法論にしたのは、
やはり、母親と姑の暮らしぶりをつぶさに見てきたから。

お姑さんは、部屋を見回しては、
「狭くて、狭くて」と、くどくのが日々の常。

家が狭くて、モノが片付かないからと、
整理箪笥を、食器棚を、引き出し用品を、
買ってきては、さらに部屋を狭くしていたような・・・

むき出しに堆積していたモノが、家具に収まったかもしれないけれど、
狭い部屋は、大きな収納家具で、さらに圧迫感のある部屋に。

一方、母親は、一度取り込んだモノは、絶対に手放さないタイプ。
なんでもかんでも、どんな状態であっても、とっておく。
当然のことながら、家がスッキリしているなんてことは、ありえない。

まったく使っている形跡のない放置されたモノを指さして、
「それは、使っているの?」と訪ねても、
答えは、決まって、「使っているから、いる」と言う母。

「でも、使っているのは、見たことないよ。いらないモノでしょう?」と、突っ込むと、
「いや、これから使う」と頑固に主張する。
でも、やっぱりそのまんま、放置されているだけ。

家の狭さを、日々くどきながら、モノをとっておくことで、さらに家を狭くしているお姑さん。
まったく使うことのない不要なモノを、使うと主張して、とっておく母。

この摩訶不思議な、姑と母、ふたりの日常。

なんなんだろう・・・このふたりにとってモノとは。
なんなんだろう・・・このふたりのモノとの関係は。

ひたすら、とっておくことだけに、費やされるエネルギーの源は、
いったい、なんなんだろう・・・・

そんな疑問が、その疑問の追及が、私の仕事の原点。

収納術だけで、住まいが片づくことなど、ありえない。
モノとの関係を問い直すことなくして、住まいが整うことなどありえない。

そのことを、教えてくれたのが、お姑さんと母なんですね^^;
                                                                                                                         7-8-10

                 「深呼吸ができますね~」  

我が家、通称・断捨離オープンハウスを、
おひとりで訪ねて来て下さった受講生さん。

開口一番、
深呼吸ができますね~

家の中で、こんなにゆったり息ができるなんて、はじめての経験だとか。
自分の家では、いかにせわしない呼吸をしているのかと。

家=自分、と、とらえるならば、
家の中の、夥しいモノたちは、毛穴を塞いでいる垢のようなもの。
家そのものが、皮膚呼吸ができない状態ならば、
そこに住まう人も、やはり、深い呼吸は、かないませんよね。

家も人も、すでに終わった関係のモノの山の中で、
窒息しているのだったらとしたら、それは、おかしな話。

食べ物よりも、水よりも、まず、呼吸。

モノさへ、絞り込んで少なくしていけば、どんな家であっても、
自然に深い呼吸ができる住まいになる。

築何十年の古い家でも、大丈夫。
私たちの身体だだって、年をとってもちゃんと息をしているのだから。
反対に、新築の家でも、あっという間にモノにのっとられ、
息苦しくなっている家は、いくらでもある。

長年にわたって堆積したモノを、
今の自分にとって、不要・不適・不快なモノたちを、
取り除いていきさえすれば、おのずと家は息づく。

呼吸は、普段は勝手にしているものだけど、
意識して、強く深く長くすることができる。

片づけは、モノの絞込みは、断捨離は、
その呼吸のメカニズムを、
より強く、より深く、より長く、するための手段。

取り組まないてはありませんね
                                                                                                                           7-2-10 

              「妻と夫と、家族と断捨離と、、、」 

Picture
 
今月は、セミナーで大忙し。
1日おきに、セミナーをしていたような。
なかでも印象に残ったのは、ご主人とご長男をお連れ下さった受講生さん。

この方、繰り返し繰り返し、受講して下さる。
が、ご自宅のモノの澱みに沈むと、モチベーションが下がる・・・
家族の理解と協力が不可欠とばかりに、ご主人と息子さんを説得。

「モノを溜め込む夫婦」と、ご自分たちを評されて。
なんと小学校からの教科書からランドセルまであるそうな、勿論、ご主人の。
ということは、何もかも、そのままあるような?
長男さんは、訳もわからず連れて来られた?
まあ、お母さんの気迫に逆らえなかったのか・・・

でも、凄いことですよね。
ご自身は、なかなか減らない住まいのモノたちに、
難儀しているのだろうけれど、
一生懸命なお母さんの姿に、感じ入ることがなくして、
わざわざご主人も息子さんも、
一緒に受講してくれることなどありえませんから。

家族が全員揃って、住まいを見直し整えてこそ、
モノ置き場と化していた家が、本当の住まい・自在空間へと劇的変化の加速。
愉しみです。

そして、結婚を控えた受講生さんたちも。

主宰・講師の私が言うのも、おこがましいけれど、
結婚前に、この断捨離セミナーを受講できるなんて、
なんて儲けものかしらんと。

これまでの暮らし方を振り返ってみれば、
いかにモノとの関係に無自覚で無意識で。
今の自分にとって、本当に必要なのかと、自問自答することなく、
あけくれモノを取り込み、溜め込む暮らし。
結果、どれだけの、時間と空間とお金を、モノに費やしたことか・・・

モノの断捨離を、まがりなりにも実践できるようになるまで、
10年以上はかかったかな、私自身は(..)
すべてが、自分だけの試行錯誤の繰り返しだったから。

結婚は、主婦として暮らしのジェネラル・マネージャーとなることでもありますね。

若い受講生さんが、よりモノとの関係を意識化すればするほど、
モノを厳選して取り込み、そして、
厳選したモノを使い込み、使いきれるようになればなるほど、
生活は、暮らしは、より軽やかなものになりますね。
そして、なによりお金の節約に、間違いなく(^_^)v

少ないモノとの、少ないモノでの、
ゆとりある暮らしを、どうぞ築いていかれますように。


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写真は、あるお宅の、ウォーク in クローゼットを片づけた時のもの。
1・2枚目の写真は、床にまではみ出していた衣類など。
3枚目の写真が、クローゼットから取り除いた不要なモノたち。

断捨離後の写真がのせられなくて、残念。
ご主人は、すっかり変わったクローゼットに入るなり、
「ウォ~」と雄叫びを発したとか。                                                                                                                      6-26-10 


 

「より良い変化の年に」   断捨離の視点は、つねに関係性。
あらためて、自分と住環境との関係を見直してみる。

やっぱり、私たちは、環境の影響を受けますよね。
それも、身近であればあるほど、影響は大きい。

一番近い、見える世界の環境が、住環境。
しかも、自分で変えることが出来る。

これを、活用しない手は、ありませんね(^^♪

住環境を、より良く調えるには、やはりモノとの関係をより良くすること。
自分とモノとの関係が、良好でなくして、住環境は整いません。

で、不要・不適・不快なモノを、ひたすら取り除いていくのが、断捨離流なのだけど。
取り除いた結果、残ったモノは、今の自分に、しっくりとなじむモノたち。
おのずと、良い気がめぐり出してきますね。

良好であれば、住まいの環境は、手間なく、苦もなく、らくらく整う。

そう、住まいが、快・快・快・・・の気で、いっぱいに。


さて、昨年は、ひたすら 捨 というテーマで、書いてきたけれど、
より良い関係が築けるモノの取り込み方にも、
意識をシフトしていくべきなんですね。

捨 を進めていけば、自然に、 断 の道に辿りついていきます。

ある受講生さんが、こんなことを言っておられた。
「バーゲンで、モノを買うのは、止めました」
「本当に、欲しいモノなら、正価で買います」

安くなったから買う・・・そうですね、これだと焦点が、値段の方にブレる。
モノそのもではなく、割安感という条件がつく。
条件づきの購入は、本当に欲しいモノではないのでは?と自分に聞くのだそう。
正価でも買おう・・・と思えるモノが、今の自分にとって要・適・快なんだと。

なるほど、モノを厳選して取り込むための流儀をひとつ、掴んだのですね。

なんと、潔い。
買い物依存から、バーゲンめぐりから、きっぱりと卒業です。

少ないモノで、時間・空間・エネルギーにゆとりがある暮らし。
それが、断捨離の目指す、豊かな暮らし。
                                                                                                      6-11-10

「捨の章」  「無くても大丈夫」  捨てるか、捨てないか、と迷うモノよりも、
あって当然と、ずっと疑いも無く思っていたモノの中に、
実は、もう無くてもいい、なんでこれがここにあるのだろう、と思うモノが、
けっこうあることに気がついて、びっくり・・・

先日の断捨離セミナーにご参加下さった、とある受講生さんの感想。

この方、今はもう止めてしまった仕事関係のモノたちが、
そのまま住まいに溢れ、普段の生活を圧迫している苦しさを、
なんとかしたくて、セミナーに。

モノの量が課題だったのかもしれないけれど、
モノと向かい合ううちに、やはり、自分とモノとの関係を問い直していくことに。

私にも経験がある。
食器乾燥機も、コーヒーメーカーも、電気ポットも、使ってはいたけれど、
別に無くなってもさしさわりがなかった。
お湯は、そのつどヤカンで沸かして間にあった。

そういえば、家事の負担を少しでも軽くしよう設置した食洗機、
食器を絞り込んで少なくしたら、手洗いでも楽々。
狭いキッチンに、ドカンと鎮座していた食洗機を取り除いてみれば、
シンクは広々・スッキリ・・・と、体験談を披露して下さった受講生さんも。

新聞も、ストップした・・・といった受講生さん。
読みたければ、仕事場にあるし、情報源にネットもある。
お陰で、処理の手間も無くなり、
なにより、暗いニュースにチャンネルを合わせずにすむと。

そう、あらためて見直してみると、
実は、いらなかった・・・というモノは、それこそ実は、いっぱいあるのですね。

モノは使ってこそ・・・が、断捨離の基本原則なのだけど、
使っているモノの中にも、
無くても大丈夫、無くても困らないモノたちが、棲息している可能性が。

無くても困らないことに気がつくと、断捨離は一気に加速。
手放すことが、気分的にずっとずっと容易になるから

と同時に、ゴミも一気に加量してしまいますが。
と言うより、なんとなく使わされたいたモノが、意識化によってゴミに変身ですね。

さらに言い換えれば、モノとの関係をはかるモノサシの精度があがったからとも。

そしてそれは、選択の主体が、自分に戻ってきた証拠。
便利ですよ、あると楽ですよ、、、と外から囁かれても、振り回されない自分。
いるものはいる、いらないものはいらない、、、と、きっぱり言える自分。

やはり、断捨離は、潔い。
                                                                                                            6-5-10 

「捨てる自由」   今年は、本当に沢山の方々が、断捨離セミナーにご参加下さった。
有難く、素直に嬉しい、感謝(^^♪

当初、受講生さんのほとんどは主婦層。
最近は、結婚前の若い女性、あるいは、一回りも二回りも上の世代の方々も。
嫁いだ娘さんが、実家のお母さんをつれて再受講する場合も多い。

男性も、少しづつ増えた。
そして、ご夫婦、恋人同士のご参加もありました。

最近のセミナーで、印象に残ったのは、娘さんにつれられた年配の受講生さん。

まず娘さんからセミナーの話を伝えきいて、モノを捨て始めた。
娘さんから見れば、驚きの光景。
「山が動いた!!」かの印象だったとか。

お母さんは、「キモチイー」と、声を上げながら、片づけていた。
だが、「気持ちいいけれど、なんか、泣ける」
といって、泣きながら捨てていたそうだ。

泣けてきた理由は?

たしかに、捨てることで、直面せざるをえないことがある。
モノ自体への思い入れ、もったいなさ、後ろめたさ・・・泣きたくもなる。

が、一番の理由は、解放感 からかと。

代々と続く家に嫁ぎ、伝来の夥しいモノに囲まれ、
その維持管理の手間は背負わされたにもかかわらず、処分の決定権はない。

そんな立場の人生を、長年、歩んできた。
舅・姑を見送り、漸くにして、モノを自由にできる立場になった時には、
それに気がつく回路さえ、塞がっていたのかもしれない。

モノの中で、息を潜めた暮らし。

モノの取捨選択の決定権、手放す自由・捨てる自由を手に入れて、
家は、初めて、大きく深呼吸のできる、自分の住まいとなる。

ご本人は、気がつくのが遅かったと、おしゃっていたけど、
いえいえ、そんなことはありません。

お母さんの、自分自身の人生は、さあさあ、これからですねよ。


◆追記エピソード

このお宅には、先代<?>の銅像があるのだそう。
しかも、玄関先に、転がった状態で・・・

なにせご先祖様、処分するにも抵抗がある。
でも、申し訳ないけれど、無用の長物、大きくて重たいし。

転がして放っておくよりは、金属リサイクルの方が、まだ・・・

どなたか、勇気ある子孫に、お任せしましょうか、と言ったら、
娘さんが、勢いよく手を上げた。

「私がやります」

大変ですね、と私。

「いえ、やりがいがあります」と、キッパリ。

そう、ご供養の仕方は、ほんと、様々かもしれません(^^♪
                                                                                                          05-29-10  


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「選ぶ力、決める力」  ある受講生さん、1クール3回の断捨離セミナー、無事受講終了。

が、一向に片づかず、再受講。
セミナーの最中は、さあ、やるぞ・・・と、腕まくりするぐらい元気が湧くのだけど、
家に戻ると、とたんにしぼんでしまう。

原因のひとつは、あまりに多いモノの量。
ちょっとやそっとでは太刀打ちできないモノの量。
呆然と立ち尽くすモノの量。

しかも、セミナーを受講したばっかりに、意識化が進み、
今まで見えていなかったモノまで浮上して来て、立ちはだかってくるかのよう。

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ひとりで立ち向かうには、敵<?>が強力すぎるのですね・・・

そして、もうひとつは、選択する力・決断する力を、
いつの間にか失ってしまっていた自分。

モノが、手元とごみ袋を行ったり来たり。
これでは、一向に作業が進みませんよね、疲れるばかりで。

今の自分に、何が、必要で不要なのか、
今の自分に、何が、ふさわしく、ふさわしくないのか、
今の自分に、何が、心地よく、心地よくないのか、

それさえも、わからなくなっている自分。

捨てる決断をする以前に、
捨てるモノを選ぶことすら出来なくなっている自分に、愕然と。
こんなにも、決断力がなくなっていたと、驚く。

今の今まで、なんら必要と感じていなかったモノであっても、
いざ、自分の手元にやって来たら、
なんだか、必要なモノのような気にさせられる。

今の今まで、すっかり忘れていたモノでさえ、
いざ、自分の目の前に晒されると、
とたんに、大切なモノのような気にさせられる。

そんな気にさせられるのは、外側の基準を軸に、自分をあわせ続けてきたから。

時間軸は、今。
重要軸は、自分。

「今の自分」をものさしに、モノと向い会う練習を、繰り返し、繰り返す。

膨大なモノと向い会い、自分を取り戻して行くには、
最初は、少しずづしか進めないのが、あたりまえなのかもしれませんね。
                                                                                                          5-24-10 


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「内側と外側のギャップ」   さて、なにかしらの転機を迎えて、断捨離セミナーに集う方々。

最近、目立ったのは、外側の自分と内側の自分のギャップに疲れている方々。
それも、気づかないうちに。

住まいが混乱するのは、やはり、整えるための時間・気力に欠けるから。
とにかく、落ち着いて家にいられない程、忙しいのが、その共通点。

なぜ、そんなに忙しくしているのかしら?

そう、外側の世界では、自分を評価してくれる人がいっぱい。
仕事に、活動に、頑張れば頑張るほど、評価も期待も高まる。
だれだって、誉めてもらえるのは、嬉しいですよね。

それに引き換え、家族、身内は手厳しい。
日常の家事を、高く評価してくれる家族は、そんなにいるとは思えない。
あたりまえのこと・・・その程度の認識ですよね。

たとえ、評価してもらえても、自分も満足できない。
自分そのものが認めれたのではなく、雑役がかるく評価された程度かなと。

スーツを着こなし、メイクを決た、社会的な能力のある自分。
さらに期待をあつめ、期待に応えようとする自分。

結果、多くの仕事を抱え込み、駆けずり回り、忙しく。
仕事・活動に伴うモノたちが、住まいにどんどん持ち込まれ、積みあがる。
そして、混乱の家には、ますます居心地が悪く、
外へ外へと、自分で自分をかきたてる。

住まいの混乱、実は、忙しすぎる自分のカタチ。
そのカタチは、外側の評価を求める自分の姿。

スーツ姿と散らかり放題の住まいとのギャップ。
そして、その大きな違和感を受け取っているのは、まさに自分と家族。

誰にも見せたくない・見られたくない、そんな部屋が多いほど、
疲れるの溜まる休まらない自分が、増えていくのかもしれませんね。



写真は、とってもとっても忙しく活躍している方のリビング。
少し、お休みをとった方が、いいですね。                  
                                                                                             5-21-10


「運ぶ」  断捨離のセミナーに、ご参加して下さる方々、
その時々に、なにかしら共通点が。

気がついている、いないにかかわらず、ほとんどの方が、転機の時期。

変わりたいのか、
変わらなくてはならないのか、
変わらざるをえないのか、

それぞれ、抱えている状況は、様々であるけれど、
皆、潜在意識に「変化」というキーワードを抱えて、やってくる。

運 は、運ぶ という文字であるように、
住まいから、今の自分にとって不要・不適・不快なモノたちを、運び出せば
住まいには、自ずと、今の自分にとって要・適・快なモノたちが、運び込まれてくる。

それが、新陳代謝であり、自律神経と氣のメカニズム、
そう、運気のメカニズム。

住環境は、一番身近な、自身で変えることのできる世界。

ここを整えずして、思考も気持ちも運気も、調いませんよね。

しかも、カタチある見える世界。
その影響力は、とってもとっても大きい。

このごくあたり前のことに気づき、
単純に素直な実践で、住まいが整えられた時、
受講生さん、それぞれが、人生のより良い変化を加速して行きます。

間違いなく。

                                                                                                                  5-17-10

バックナンバー 断捨離1   断捨離2   断捨離3
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      著者 やましたひでこ

 断捨離の目指すところは、日々のごきげん。
そのごきげんは、自らの、先送りすることの無い小さな選択決断の繰り返しから・・・そんなふうに思いませんか?

ごきげんの輪が、ラスベガスに、さらに広がらんことを。 
そして、ひとりでも多くの方が、ごきげんであらんことを。


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